「吃音(きつおん)」という言葉を知っていますか?
言葉の最初の音を繰り返してしまったり、音が伸びたり、話そうとしているのに言葉が出てこなかったりするものです。
例えば、
「あ、あ、あ、明日」
と言葉が連続してしまったり、
言いたいことは頭の中にあるのに、最初の一音がどうしても出てこなかったりします。
私自身、学生の頃は吃音気味でした。
今ではかなり改善しましたが、完全になくなったわけではありません。今でも、ときどき言葉に詰まることがあります。
私は医師でも、吃音の研究者でもありません。
だからこの記事で、
「すべての吃音の原因はこれです」
と言うつもりはありません。
ただ私は、10年以上、自分自身の吃音と付き合ってきました。
なぜ言葉が出ないのか。
どんなときに出なくなるのか。
なぜ一人なら話せるのか。
なぜ人がいると話せなくなるのか。
なぜ特定の言葉だけ出なくなるのか。
そして、どうして昔より話せるようになったのか。
自分の弱さや、逃げていた部分も含めて長い時間をかけて考えてきました。
その結果、少なくとも「私自身の吃音がなぜ悪化し、なぜ改善していったのか」については、自分の中ではかなり明確な答えがあります。
今回は医学書の説明ではなく、一人の吃音経験者として、その答えを書いてみようと思います。
話し方がすごい変な人がいるんだなぁ
すごいどもってるのっ!
ゆっくり落ち着いて話すべきなんだなぁ
そうだよね、、
周りから見たらそんなに緊張しなくても良いのにって、、
でも身体がいうことを聞かないこともあるんだよ
不思議だなぁ
ぼくは緊張しても深呼吸で大丈夫だよっ
リラックスが大事っ!
たしかに。
それも解決方法の一つではあるけど
もしよかったら吃音についてもう少し知ってもらえたら嬉しいな。
私の吃音はどんなものだったのか
私の吃音は「言葉を知らない」のではなかった
私が吃音で言葉に詰まっているとき、不思議だったことがあります。
何を言いたいのかは分かっているんです。
例えば、
「明日、学校に行く」
と言いたい。
頭の中には「明日」という言葉があります。
口も「あ」と発音しようとしています。
それなのに、
「あ……」
となって、その先が出ない。
私の感覚では、口の形までは準備できているのに、体が固まって声を出すところまで進めないような感じでした。
もちろん、これは医学的な体の仕組みを説明しているのではありません。
あくまで、その瞬間の私にはそう感じられていたという話です。
そして、もっと不思議なことがあります。
一人なら普通に言えるんです。
「明日」
言えます。
ところが、人に向かって同じ言葉を言おうとすると出なくなる。
これが、私が自分の吃音について考えるうえで、とても大きなヒントになりました。
一人なら話せる。それなら何が違うんだろう?

これは私だけの特殊な経験とも限らないようです。
吃音のある成人を対象に、「本当に誰にも聞かれていないと思っている状態」で独り言を話してもらった研究があります。
その実験では、24人が話した1万音節以上の中で、吃音らしい発話はごくわずかしか観察されませんでした。
研究者は、実際の聞き手だけでなく「誰かに聞かれている」という認識が、吃音の発現に重要な役割を持っている可能性を指摘しています。
では、
一人で話しているときと、人に話しているときでは何が違うのでしょうか。
私は自分自身について、ずっとこれを考えてきました。
そして私の場合、大きかったのは、
「相手からどう思われるか」
だったのではないかと思っています。
一人なら、どもっても誰にも笑われません。
変に思われません。
会話を止めても誰にも迷惑をかけません。
何秒かかってもいい。
失敗してもいい。
そもそも失敗という概念すらありません。
ところが目の前に人がいると、状況が変わります。
早く答えなきゃ。
ちゃんと話さなきゃ。
またどもったらどうしよう。
変に思われないかな。
笑われないかな。
そして、この意識が強くなるほど、私の体は固まっていきました。
「またどもるかもしれない」が始まる
一度、言葉に詰まります。
すると私は覚えます。
「あ、この言葉は出なかった」
次に同じような言葉を話そうとしたとき、
「また出ないかもしれない」
と思います。
まだ何も起きていないのに、です。
すると、話す前からその言葉を警戒するようになります。
そして、
「ちゃんと言わなきゃ」
と思う。
でも、ちゃんと言おうとするほど意識してしまう。
体が固まる。
そして、本当に出なくなる。
「やっぱり私はこの言葉が言えない」
そうやって、私の中で苦手な言葉が増えていきました。
今振り返ると、私にとって本当につらかったのは、一回どもることそのものより、
「またどもるかもしれない」という予測を持ちながら会話すること
だったのだと思います。
吃音を隠すために、私は逃げるようになった
私は「言い換え」で逃げていた
そこで私は、自分なりの方法を身につけました。
言えない言葉を、別の言葉に置き換えることです。
例えば、
「明日」
が出なさそうだったら、
「次の日」
にする。
「給食」の最初の音が出そうにないなら、
「食事」
と言う。
会話の直前に、
「これは出ない」
と感じた瞬間、別の単語を探すんです。
これはかなり便利でした。
実際、この方法のおかげで、周りの人には私が吃音だとほとんど気づかれていなかったと思います。
でも、今振り返ると、これは同時に逃げでもありました。
私は「給食」と言えなかった。
でも「食事」と言ったことで、その場を切り抜けた。
すると、
「給食と言えなくても大丈夫だった」
ではなく、
「やっぱり『給食』は言えないから避けなければならない」
という経験を積み重ねることになります。
これが私にとって、とても大きかったのだと思います。
言葉から逃げ、会話から逃げるようになった
避ければ失敗しません。
言い換えれば、どもらなくて済みます。
それでも難しければ、そもそも話さなければいい。
これはものすごく安全です。
だから私は、だんだん話さない人になっていきました。
でも、本当は話したかった。
普通に会話したかった。
くだらないことも言いたかった。
自分の考えていることを、そのまま言葉にしたかった。
だけど、
「また出なかったらどうしよう」
という怖さのほうが強かった。
だから話さない。
そして話さない自分を見て、
「私は話すのが苦手な人間なんだ」
と思う。
今振り返ると、私の場合はこんな循環になっていました。
言葉に詰まる
↓
また詰まるかもしれないと思う
↓
失敗しないように強く意識する
↓
さらに話しづらくなる
↓
言葉を言い換える
↓
それでも怖ければ会話そのものを避ける
↓
「私は話せない」という認識が強くなる
↓
さらに話すことが怖くなる
私は長い間、この中にいたのだと思います。
「ゆっくり話して」と言われても解決しなかった理由
だから当時、
「ゆっくり話していいよ」
「落ち着いて」
と言われても、私はあまり楽になりませんでした。
もちろん、言っている人に悪意はありません。
心配してくれているんだと思います。
でも私の中では、
「ゆっくり話せば出るなら、とっくにそうしてるよ」
という感じでした。
むしろ、
「相手も私の話し方がおかしいことに気づいている」
と認識してしまいます。
すると、さらに自分の話し方を意識します。
私が一番ありがたかったのは、もっと単純でした。
何も言わずに、普通に待ってくれる人です。
言葉に詰まっても顔色を変えない。
先に答えを言わない。
急かさない。
特別扱いもしない。
ただ普通に、
「うん、それで?」
という感じで続きを待っている。
そういう人とは話しやすかったです。
なぜなら、
「この人の前では、どもっても何も起こらない」
という経験ができるからです。
私が吃音と向き合って変わったこと

私を変えたのは「どもらない努力」ではなかった
私は長い間、
「どうすればどもらなくなるんだろう」
と考えていました。
でも最終的に私を大きく変えたのは、逆でした。
あるとき、
「もう、どもってもいいや」
と思ったんです。
これは前向きな決意というより、最初は半分諦めだったと思います。
もうしょうがない。
どもるものはどもる。
変に思われてもしょうがない。
失敗して恥ずかしくてもしょうがない。
これが今の私なんだから。
そうやって、自分を少しずつ受け入れるようになりました。
もちろん、次の日から突然普通に話せるようになったわけではありません。
実際にどもりました。
恥ずかしい思いもしました。
「やっぱり話さなきゃよかった」
と思ったこともあります。
でも、
「まあ、しょうがないよね」
と思うようにしました。
そして、また話す。
また失敗する。
それでも話す。
すると少しずつ、
「どもっても、別に大変なことにはならない」
という経験が増えていきました。
逃げるのをやめたら、少しずつ怖くなくなった
ここが、私自身の吃音について一番重要だったと思っています。
私は吃音そのものと戦っていたつもりでした。
でも実際には、
「どもっている自分を他人に見られること」
から逃げ続けていたのかもしれません。
言葉を変える。
話題を変える。
発言しない。
人との会話そのものを減らす。
そうすれば傷つかなくて済みます。
でも同時に、
「どもったって大丈夫だった」
という経験もできません。
だから私は逆にしました。
完璧に話せなくても話す。
出ない言葉があっても話す。
恥ずかしくても話す。
そして、
「これが今の自分なんだから」
と認める。
それを何年も繰り返しました。
すると私の場合、少しずつ人の目が怖くなくなっていきました。
そして人の目を気にしなくなるにつれて、話すときの体の緊張も以前より小さくなり、結果として言葉に詰まること自体も減っていきました。
私の経験から考える吃音の仕組み
面白いことに、現在の研究にも似た話がある
この記事を書くにあたって調べてみると、私が自分なりに経験してきたことと似た方向を扱った研究もありました。
吃音のある成人・青年510人を調べた研究では、「またどもるかもしれない」という予期に対する反応として、大きく「回避」と「受容」が見いだされています。
また、吃音を隠したり避けたりすることを減らしていく「Avoidance Reduction Therapy」という考え方もあります。
もちろん、
「だから私の考えが医学的に証明された」
と言うつもりはありません。
逆です。
私は自分自身を観察して、自分なりの答えにたどり着いた。後から調べてみたら、似た現象を扱っている研究もあった。
私にとっては、その順番です。
では、吃音の原因は「人の目」なのか?
ここは慎重に分けておきたいと思います。
私は、
「すべての吃音は、人の目を気にすることが原因だ」
と主張しているわけではありません。
現在の研究でも、発達性吃音には遺伝的・神経学的な要因など、さまざまな要因が関係していると考えられています。
そして、脳損傷などによって生じる神経原性吃音という別のタイプもあります。
だから、吃音という大きな括りをすべて私の経験だけで説明することはできません。
ただし、
少なくとも私自身の吃音については、「人にどう思われるか」「また失敗するのではないか」「どもってはいけない」という意識と、それによる回避の積み重ねが、症状を大きくしていた
と私は考えています。
そして、それを一つずつ逆方向に進めたことで、実際に私は大きく改善しました。
これは論文から得た結論ではありません。
私自身が長い時間をかけて経験した結果です。
吃音のある人とどう接したらいい?

もし子どもに吃音があったら、私なら「話すこと」を嫌いにさせたくない
では、自分の子どもに吃音があったらどうするか。
これは治療方法を語れる立場ではないので、あくまで私自身の経験から考えることです。
私ならまず、
その子に「自分の話し方はおかしい」と思わせたくありません。
「ゆっくり話しなさい」
「ちゃんと言って」
「落ち着いて」
と、話し方そのものを何度も指摘するのではなく、
その子が何を話しているのかを聞きたいです。
今日学校で何があったの?
誰と遊んだの?
何が面白かった?
もっと教えて。
そうやって、たくさん話を聞く。
途中で詰まっても待つ。
言葉が出なくても普通にしている。
そして最後まで話を聞く。
そうすることで、
「私はこういう話し方だけど、普通に人と話していいんだ」
という経験をたくさん作ってあげたいです。
学校など別の場所で嫌な経験をすることはあるかもしれません。
それでも、
「家では普通に話せる」
「自分の話を聞きたがってくれる人がいる」
という場所が一つある。
私自身の経験から考えるなら、それはとても大きなことだと思います。
もちろん、本人が強く困っていたり、生活への影響が大きかったりするなら、言語聴覚士など専門家に相談することも選択肢の一つです。
家庭でできることと専門的な支援は、どちらか一つを選ばなければならないものでもないと思います。
吃音の人は「話したくない」とは限らない

昔の私は、かなり無口でした。
でも、
話すことが嫌いだったわけではありません。
むしろ逆です。
話したかった。
いっぱい話したかった。
ただ、話すのが怖かった。
だから、もしあまり話さない人が吃音だったとしても、
「この人は会話が嫌いなんだ」
とは決めつけないでほしいなと思います。
もちろん、人によって性格は違います。
静かな人もいれば、おしゃべりな人もいます。
でも、私のように、
話したいのに、怖くて話せなくなっている人
もいると思います。
そんな人と出会ったら、難しいことをする必要はありません。
普通に話しかけて、普通に聞いて、言葉が出るまで普通に待つ。
私は、それが一番うれしかったです。
私が変えたかったのは、吃音ではなく「吃音の自分を嫌うこと」だったのかもしれない
昔の私は、
「どもらない人になりたい」
と思っていました。
それがゴールだと思っていました。
でも10年以上経った今でも、私はときどきどもります。
それでも昔とは全然違います。
なぜなら今は、
どもった自分を、昔ほど嫌わないからです。
「あ、出なかったな」
くらいです。
昔なら、その一回を一日中引きずっていたかもしれません。
でも今は、
「まあ、しょうがない」
で終わります。
そして次の言葉を話します。
結果として、昔よりずっとたくさん話せるようになりました。
だから私自身の経験だけで言えば、
吃音をなくそう、隠そう、失敗しないようにしようと必死になっていた頃より、「どもってもいい」と受け入れた後のほうが、吃音そのものも減りました。
少し皮肉な話です。
治そうと必死だった頃より、
「これも自分だからしょうがない」
と思った後のほうが楽になった。
話せない自分から逃げなくてもいい
吃音については、まだ分かっていないこともたくさんあります。
そして、私の経験がすべての人に当てはまるとも思っていません。
だからこれは、
「こうすれば吃音は治ります」
という記事ではありません。
一人の吃音経験者が、自分自身を10年以上観察して出した一つの答えです。
私は長い間、自分の吃音を弱点だと思っていました。
言葉から逃げました。
会話から逃げました。
人の目から逃げました。
そして何より、
吃音のある自分自身から逃げていたのだと思います。
でも、逃げるのを少しずつやめました。
どもっても話す。
失敗しても話す。
恥ずかしくても、
「まあ、これが私だから」
と認める。
そうやって少しずつ変わっていきました。
もし今、昔の私と同じように、
「どうして普通に話せないんだろう」
と自分を責めている人がいたら。
無理に「気にするな」とは言いません。
私だって、言われて気にしなくなれたわけではありません。
すぐに自分を好きになる必要もありません。
でも、
どもっている自分を、必要以上に嫌わなくてもいい。
そこから少しずつ始めてもいいのではないでしょうか。
私は今でも、ときどきどもります。
でも、普通にたくさん話します。
昔の私からしたら、それだけでもかなり大きな変化です。
吃音も含めてこれが自分なんだと、今はそう思っています。
最後まで読んでくれてありがとう!
これからも「ちょけん!」をよろしくね。
